松山へのソロのツーリング BY クライドライトウエスト
Report and Photo : チーム2CV

開催日 2001/1/25(木)〜27(土)
目的地 愛媛県松山市
レポート シトロエン 2CV(おっちゃん)


本稿はEDF Onlineのフォロークラブ通信2001年2月号に掲載されたものの転機です。


火事から3ヶ月目の
リスキー入り口
 先月号(※編者注 フォロークラブ通信2001年1月号)で松山Risky(2000,11/19火事で全焼したバー) 救済コンサートin和歌山の模様をレポートしましたが、 今回はその続編1/25に行われました“Live AID(リスキー救済コンサートin松山)”の模様を旅のレポートを交えお伝えします。

1月24日(前日出発)
 この日はお昼に友達と会ってそのままお世話になってるデザイン事務所に顔を出してからの出発となりました。 夕方7時、鶴橋駅にて友達と別れそのまま松山を目指しました。 Riskyマスターが首を長くして待ってくれている事はわかってたのですが、 全行程を高速道路を使って4時間で行くには余りにもお金に余裕が無かったので、 なるだけ地道て行く事にし、 今回はR2をひたすら西へひとまず広島県の尾道目指して走ることにしました。

 22時10分岡山市を通過して22時30分に倉敷にて給油、 松山に連絡を入れて再び走行、尾道着は深夜零時でした。ここでお腹も減ってきたので、 最近有名な『尾道ラーメン』でも食べようと駅前の昼間賑やかな方に向かったのですが、 な、な、なんと何も開いて無いどころか人すら歩いてないではないですか。

 仕方なしに尾道から『しまなみ海道』を渡って四国の今治に入ることにしましたが、 結局夜中と言う事で『しまなみ海道』途中でも食べ物は期待出来ず、 更には今治〜松山間を海沿いではなく山越えなるマニアックなルートを選んだために結局松山まで何も食す事は出来ませんでした。

 今治からワインディングの続く山道をもううんざりしながら抜けた辺り、 松山市の石手寺近くのセルフのスタンドが開いてたので給油しようと入ったところ、 お金を入れる入れ口が見つからず仕方無しに店員に声掛けて車に戻ろうとしたところ、 いきなり背後からその店員の「何言うてんねん清水」との声が、 「何でこいつが俺の名前知ってるねん?」と思いながら振り返ると、 実はその店員僕が東京時代トロンボーンの中路君のバンドに居た頃一緒に演奏してたベースの藤田耕平君だったのです。

 彼は以前別のバンドのツアーで松山に来た際に奥様と知り合い結婚、 今は奥様の郷里松山を中心にここでバイトしながら全国的に演奏活動を展開していたのです。 久しぶりの再開にもかかわらずお互い驚くでもなく相変わらず変な二人でした。

 松山到着後はRiskyマスター(以下く〜やん)と今回呼んでくれたシュガービレッジ実行委員会エップー氏&BAR 『アディクト』の小池氏達と合流、朝まで飲み明かしましたとさ。



深夜の尾道駅前
何も無かった

はじめての
『しまなみ海道』

しまなみ走行中
決死のショット

話し込むRisky(左)
と暖手巣(右)

1月25日(当日)
 当日は Riskyの再建を願うのか願わないのか超満員のお客さんの中、 会場となった三番町『Monk』は熱い熱気に包まれていました。 高知出身で松山で活動するシンガーソングライター『雅子』さんの透き通るような歌声に始まり、 会場となった『Monk』のマスター関屋さん率いる『あすかバンド』のパワフルなステージの後、 我がトリオ((松山限定:門石ゴン(b)&佐々木ちゆき(Ds))の演奏、 メンバーには少し申し訳なかったのですが僕のオリジナルで特に『Risky』や『Vicky's』や松山や友達にまつわる楽曲を中心に演奏しました。

 僕んとこと雅子さんとこは合計2ステージ演奏したのですが、 僕の方の2ステージ目はベースの吉岡さんはじめ地元松山のジャズメンの方々が訪れてくださり大ジャムセッション大会に、 そして最後はリクエストで僕のオリジナルあの名曲『Rug Time』でかなりの狂乱状態の盛り上がりを見せ事無きを得た?次第なのです。

 この夜も朝まで飲んでしまいました。 5年振りの友達との再会もありましたしく〜やんや皆さんとも過ごせたし楽しい一日となりました。



雅子さん
オンステージ

あすかさん
オンステージ

我が松山限定トリオ

終わってから

1月26日(帰り道)

多分愛車とRiskyの
最後のショット
 この日は夕方から大阪桃谷の『M'sHall』さんでライブという忙しさ、 神戸と大阪の渋滞を避ける為と仮眠を取る為に徳島からフェリーで和歌山入りしました。 和歌山ついでに前回『Risky救済コンサートin和歌山』でお世話になった 『Cante del Sol』さんに松山の模様を報告に行ってからとっとと大阪に帰りました。

 以上が今回の旅というか『Live AID』の僕がたどった粗筋です。 リスキー(店)は火事から3ヶ月、焼けた直後の姿をそのまま残していました。 色々と思い出や思い入れは有るのですが去年の『キャノンボール』や 『シュガービレッジ』の事を思い出しながら皆が笑顔で入って来たドアが この目の前に有る焼けて朽ち果てたドアなのだと思うと涙が出てきました。

 それとは裏腹にマスター@ク〜やんは元気で次の店の構想を練り続けてるみたいで、 こっちは一安心かなってところでしたよ皆さん。



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